1.玉電用賀駅跡
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明治40年(1907)4月、この道に玉川電車が通りました。ガタゴトと路面を走る電車で多摩川の砂利も運びましたのでジャリデンとも呼ばれました。 石油ランプを使っていた沿線の家々には電灯もつくようになりました。電気を使う生活の始まりです。 用賀駅には電車の折返所もでき、駅前にあった用賀梅林には赤坂や青山方面から子ども達が遠足に来ました。 駅の待合室は子ども達のたまり場となり、近くの子ども達もよく遊びました。 数々の出会い、別れの想い出を綴りながら、昭和44年(1969)5月、玉川電車廃止にともない、玉電用賀駅はその姿を消しました。 |
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2.真福寺(しんぷくじ)用賀4−14 |
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このお寺は今から約400年前に創建されたといわれ、大山道(おおやまみち)に山門があって赤く塗ってあったので赤門寺とも呼ばれていました。ご本尊は大日如来という仏さまで、開山は宗円和尚、開基した人は飯田図書(いいだずしょ)という人です。 |
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3.火の見やぐら跡(ひのみやぐらあと)用賀4−11 |
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大正2年(1913)、玉川村の中に6つの消防組が編成される事になり、用賀は、その第1部消防組を受け持ち、約40名の若者が参加しました。 |
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4.田中橋(たなかばし)玉川台1−13 |
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むかし、この谷沢川をはさんで両側一帯は田んぼでした。村人はこの橋を、田の中の橋だから『田中橋』と呼ぶようになりました。あまり大きくはありませんが、非常に大切な橋でした。この橋をわたる道路は厚木(大山)街道といい、神奈川の厚木まで通じています。大山の阿夫利神社は雨の神様が祀ってありますが、昔は信心深い人が多かったので、明治の頃までここを通って下町、山の手から大山詣に行きました。また、神奈川の人も牛車を曳いて、農作物を運ぶために利用しました。 |
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5.延命地蔵(えんめいじぞう)玉川台2−3 |
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相模に向かう大山道は、ここから瀬田に向かって二股に分かれます。右の道を行くと滋眼寺(じげんじ)前の坂道、左の道を行くと行善寺(ぎょうぜんじ)、法徳寺のそばを通る坂道、いづれの道も二子の渡しにつながっていました。 |
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6.旧京西小学校跡(きゅうきょうさいしょうがっこうあと)玉川台1−5 |
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明治12年(1879)12月、この場所に京西小学校が創立されました。瀬田と用賀の村境で、両方の村の子ども達が通うのに便利だと、みんなが相談して決めました。 | |
7.向大橋(むかいおおはし)玉川台1−17 |
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むかし、この辺り一帯は用賀でも地形が平らな所でしたので、向こうにある原っぱという事でしょうか、村の人たちは向原(むかいはら)とか向(むかい)という地名で呼んでいました。 |
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8.向稲荷(むかいいなり)用賀1−26 |
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この稲荷は、京都伏見稲荷の分霊を祀り、通称正一位向稲荷(しょういちいむかいいなり)といいます。用賀字向の住民が家内安全、五穀豊穣、商売繁盛祈願のため創建したもので、その年代は不明ですが、古文書には天保3年(1832)に初午祭が行われたとの記録がありますから、相当古くに創建されたと考えられます。この初午祭は毎年続けられており、現在は講中(こうじゅう)の子孫約20名が慣例に従い、2月の第2日曜日に行っています。当日奉納された菓子、果物などは参詣に訪れた子ども達に配られ、成長の喜びを祈願します。 |
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9.八幡社跡(はちまんしゃあと)用賀1−2 |
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この高台一帯は、昔、八幡山といわれていた所です。そして、この西側は宇佐前、東側は宇佐後と呼ばれていました。それは、明治時代の終わり頃まで、ここに八幡様は九州大分県の宇佐八幡神社が本元で、しだいに日本全国に伝わった神さまです。そのため、八幡とか宇佐という地名はあちこちにあります。 |
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10.東条英機邸跡(とうじょうひできていあと)用賀1−10 |
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ここは、太平洋戦争開戦(昭和16年12月8日)の時、内閣の最高責任者であった東条英機首相の私邸跡です。東条首相は陸軍大臣も兼務していましたので、首相官邸や陸軍大臣の官邸で生活する事が多かったのですが、日曜日など、家族と共にここの私邸で過ごしました。 |
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11.法教上人塚跡(ほうきょうしょうにんづかあと用賀2−25 |
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ここは、今から300年以上も昔、寛文4年(1664)に亡くなった『お上人様』のお墓(塚)があった所です。このお上人様は人々の信望がとても厚かったようですが、不思議なことに、その名前も出身地も伝わっていません。いい伝えでは、その塚にお参りすると百日咳が治るとのことで、村人は治った時には、お礼に甘酒を供えました。そして、近所の子ども達は、その甘酒が温かいうちに、こっそり飲んでしまうこともあったようです。 |
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12.戸越農園跡(とごしのうえんあと)用賀2−16 |
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ここは、昔、用賀有数の大地主『ぶしちさま』(正式の名は飯田武七)の畑でしたが、大山街道沿いで手広く生糸工場を経営していた広瀬商店が、後にこの土地を購入し、ミニゴルフ場を開業した所です。 |
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13.用賀神社(ようがじんじゃ)用賀2−16 |
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この神社は以前神明社といい、その創立の年代は不明ですが、明治41年(1908)に一緒に祀った八幡社は、天正年間に鎌倉の鶴岡八幡宮より分霊を迎えたといわれています。この明治41年の合祀(ごうし)の際には、上用賀にあった天神社(てんじんしゃ)も合わせて祀られました。祭神(さいしん)は天照皇大神、応神天皇、菅原道真ほか数柱です。菅原道真は学問の神さまとして有名ですが、ここ用賀神社にも受験の人達のお参りがあります。 |
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14.大山道追分(おおやまみちおいわけ)約7km4時間コース |
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江戸時代、相模の大山詣での人々が、毎日のように用賀を通っていた頃、この前の道に高さ1m20cm位の道標の石塔が建っていました。正面には庚申塔という字が刻んであり、右は江戸道(えどみち)、左は世田谷四谷道(せたがやよつやみち)と書いてありました。建てられたのは文政10年(1827)で、当時この三叉路の近くには、旅館や酒店、料理屋などいろいろな店が軒を並べ、用賀村の中心で、とても賑やかな所でした。 |
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15.水道みち(すいどうみち)用賀3−14 |
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この道は、大正時代、渋谷方面へ水道を引くため、水道管を埋めた場所で、はじめは、人や車の通る道ではありませんでした。水道は多摩川の水を砧で汲み上げ、岡本、用賀、桜新町を経て駒沢の給水塔に一度溜め、高さを利用して渋谷の方へ送るという方式です。 |
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無量寺(むりょうじ)用賀4−20 |
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このお寺は、用賀の観音さまという名前で呼ばれる事もありますが、今から約400年位前、光蓮社明誉寿広和尚(こうれんしゃめいよじゅこうおしょう)が開山したお寺です。ご本尊は阿弥陀さまで、本堂脇の観音堂には木彫りの十一面観世音菩薩が安置されています。この観音さまは用賀の住人高橋六右衛門尉直住(たかはしろくうえもんのじょうなおずみ)という人が夢のお告げにより、このお寺に納めたとのいい伝えが残っており、用賀村の人達はもとより、遠く阿佐ヶ谷、高円寺、調布の方の人々からも信仰されていたとの事です。 |
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17.庚申塔(こうしんとう)用賀4−26 |
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この庚申塔は元文5年(1740)、庚申(かのえさる)の年に建てられたもので、正面には青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)、その右には日像、雄鶏像(おんどりぞう)、左には月像、雌鶏像(めんどりぞう)が画かれています。そして、青面金剛像の下には鬼と三匹の猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が彫ってあります。 |
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18.第六天様跡(だいろくてんさまあと)用賀4−38 |
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ここは、昔、第六天という神様が祀ってあった所です。小さな社が建っていて、 その脇には力石(ちからいし)が置いてあったそうです。力石は37貫(約140kg)の重さがあり、村の若者たちは、 この石を持ち上げて力比べをしました。時がたって、第六天さまの社は無くなり力石は用賀神社の境内に移され、跡地は畑になっていました。 そして、昭和35年この地に用賀敬老会館が建設され、昭和58年には新たに用賀地区会館という施設に生まれ変わりました。 今、第六天様跡地で、大人も、子どもも第六天高齢者クラブの人たちも楽しい日々を過ごしています。 |
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19.旧玉川村村長邸(きゅうたまがわむらそんちょうてい)上用賀3−2 |
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ここは、旧玉川村の金子為太郎村長邸です。玉川村は明治22年(1889)、用賀、瀬田、野良田、上野毛、下野毛、尾山、等々力、奥沢という江戸時代からの古い村々が合併して出来た村の名前です。金子村長は明治45年から大正12年まで一番長く村長を務め、村の発展に尽くしました。そして、村長を辞めてからも、次の豊田正治村長たちと相談して、村全体の道路を整備していく計画(玉川全円耕地整理事業といいます)の中心的役割をつとめました。今、私たちの町は道が東西南北、碁盤の目のように出来ていますが、これは、金子村長さんたちの努力の賜物です |
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20.旧用賀名主邸(きゅうようがなぬしてい)上用賀3−11 |
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ここは、江戸時代の中頃、宝暦3年(1753)飯田安之烝が飯田平兵衛家(代官)から分家した家ですが、天明6年(1786)、代官家が領外追放となってからは本家を相続し、以後、栄治良(えいじろう)、安之烝(やすのじょう)、麻次郎と代々名主職(村の役人)を務めました。麻次郎は明治5年(1874)、明治維新によって名主制が廃止となって新制度のもと、戸長に就任しました。 |
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21.本村稲荷(ほんむらいなり)上用賀3−13 |
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昔、このあたりは用賀の本村といわれた所で、高台に天神さまの社もありましたので天神山(てんじんやま)とも呼ばれていました。そして、天神さまの脇には赤い鳥居のお稲荷さんが祀られていました。明治41年、村内のいくつかの神社をまとめて用賀神社ができた時、この天神さまは、その中に一緒に祀られる事になり、ここにはお稲荷さんだけが残りました。そこで、村の人たちは、このお稲荷さんを本村稲荷と名付け毎年2月、初午の日にはお祭をして、守って来ました。また、昭和7年、昭和32年、昭和57年(1982)と25年ごとに大祭も行われました。 |
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22.天神溜池跡(てんじんためいけあと)上用賀1−8 |
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ここは江戸時代の中期、享保5年(1720)に用賀村の人たちが田んぼに使う水を溜めるため、作った池の跡です。 |
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23.衛生材料廠跡(えいせいざいりょうしょうあと)上用賀1−18 |
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この辺り一帯は、昔、作物の良くできる畑でしたが、昭和4年(1929)陸軍衛生材料廠(陸軍が使う薬などを作ったり保管する施設)が芝白金という所から引越して来ました。そして、太平洋戦争の頃にはたくさんの人が働いていました。朝晩、玉川電車の用賀駅からここへの道は人の列が出来たそうです。正午になると昼休みの時間を知らせるためのサイレンが大きく鳴ったとのことです。 |
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24.覆馬場(インドアアリーナ おおいばば)上用賀1−21 |
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この建物は、雨天時や室内競技などのためにつくられた馬場で、大きな屋根で覆ってあるので覆馬場(インドアアリーナ)といいます。 |
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25.北見橋跡(きたみばしあと)上用賀2−3 |
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昔、ここに品川用水が流れていました。この用水は、江戸時代の初め、玉川上水を分水して品川領戸越まで引いたものです。用賀村は、この用水に三カ所、橋をかけました。弦巻橋、中の橋、北見橋です。北見橋を村人は『きたんばし』と呼んでいました。そして、『きたんばし』は寛政6年(1794)石の橋と変わりました。その時この橋を利用するたくさんの村の人々は、橋がいつまでも安全に渡れるよう、ここに供養塔を建てました(今、この供養塔は世田谷区経堂5丁目の長島大榎公園内にあります)。そして、大正3年(1914)この橋は再び改修され、幅の広い橋に生まれ変わりましたが、昭和25〜27年にかけて品川用水が埋め立てられた時、その橋もなくなってしまいました。 |
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26.馬事公苑(ばじこうえん)上用賀2−1 |
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JRA馬事公苑は、昭和15年(1940)帝国競馬協会により馬術の普及と騎手養成のために開設されました。また、同年東京で開催予定だった第12回オリンピック大会の馬術競技会場でしたが、戦争により中止となり、以後軍馬の改良、訓練などにも使われていました。 |
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27.東京農大農場跡(とうきょうのうだいのうじょうあと)上用賀4−3 |
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東京農業大学は、明治26年(1893)、榎本武揚により創立された東京農学校を母体とする、我が国最初の私立農学校です。開校時は文京区小石川でしたが、その後、渋谷区の青山常盤松に移りました。昭和20年、くうしゅうで常盤松校舎が焼けたので、用賀農場に近い旧陸軍機甲整備学校地の払い下げを受け、翌年から現在の世田谷キャンパスに移転しました。 |
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28.谷沢川湧水池跡(やざわゆうすいちあと)上用賀6−22 |
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谷沢川は用賀、上用賀地域の湧水や溜池を水源として大山道近くで合流、田中橋の下をくぐって中町、上野毛を通って等々力渓谷を形成し、多摩川に流れ込んでいる全長3800mの川ですが、その湧水池の一つが、ここにありました。池の水は湧き出るというより、世田谷通りの北側、東京農大の近くや宇山の方から流れ出た小川の水がここに溜まったという方が正しいかも知れません。池には葦が繁り、木が2本生えて小島もあったそうです。コイやウナギのほか小さな魚もいましたので、近所の子ども達にとっては格好の遊び場でした。 |
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29.三峯神社(みつみねじんじゃ)上用賀6−4 |
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三峯神社の本社は埼玉県秩父郡大滝村にあり、正しくは白岩山、雲取山、妙法岳を総称して三峯と呼び、その一角に日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀った神社といわれています。のちに、狼、山犬、猪など、野生の動物から身を守り、諸難を除く神様として関東一円に、その信仰が広がりました。 |
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30.砧パークブリッジ(きぬたぱーくぶりっじ)上用賀5−14 |
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平成7年6月に完成した、環状8号線で最もおしゃれで快適な歩道橋、それが砧パークブリッジです。 |
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31.洗い場(あらいば)上用賀5−15 |
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今は蓋がされていて見えませんが、このすぐ脇を谷沢川が流れています。昭和の中頃までは、この川の所々に洗い場が設けられ、近隣の人たちに利用されていました。 |
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32.用賀いらか道(ようがいらかみち)上用賀5−7 |
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舗装に使った瓦から「いらか道」と呼ばれるこの道は、”楽しく歩けるまちづくり”の一環として昭和61年につくられました。田園都市線の用賀駅から世田谷美術館のある砧公園まで続く約1kmの所々には、人工の流れや噴水、休憩のためのベンチ、木陰に覆われた並木道など、さまざまな工夫がされています。 |
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33.中丸地蔵(なかまるじぞう)上用賀5−7 |
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お地蔵さまの正式の名は地蔵菩薩、遠くインドの神話の中に生まれて、仏教の中に取り入れられ、奈良時代、中国大陸を経て日本に伝えられた仏さまです。 |
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てくたくぶっく世田谷ふるさとめぐり(用賀・馬事公苑コース) |
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用賀条通りマップ
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用賀の街に碁盤の目のような道ができたのは昭和10年代、畑や竹薮などが住宅地に変わっていくと目印が無くなり、用賀駅を降りて用賀中学校やふじみ荘、関東中央病院等へ訪れる人が四つ角で途方にくれている姿を何度も見かけました。そこで考え出されたのが手作りの道案内『用賀条通り』です。つづく |
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用賀の歴史地図資料1:用賀地図(明治初期) |
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(資料1の地図を参考に資料2の地図が作成されています。) |